Edge/YOUTH 〜生き続けるために 今〜
第4回 詩人・三角みづ紀の存在と不在
放送日:8月26日(土)
出演:三角みづ紀(詩人)
演出:平田潤子
制作:テレコムスタッフ
三角みづ紀、25歳。2004年に第42回現代詩手帖賞受賞し、同年10月に刊行した『オウバアキル』で第10回中原中也賞を受賞した、現在最も注目されている若手詩人である。自傷行為、投身自殺、摂食障害など危うげで鮮烈なテーマを読むその作風は、出版に伴い賛否両論の渦を巻き起こした。
いじめや自傷癖など自己受容の困難さを抱えて少女期を過ごし、20歳の時に原因不明の難病、全身性エリテマトーデス(膠原病)に罹患して現在に到る三角。自らを「全身表現者」と呼ぶ三角は、病をかえりみず、積極的な提案とともに撮影に参加したが…。今まさに切り拓かれようとしている三角の新たな境地を垣間みる。
『見えるものと見えないもの』
この番組は、撮影されなかった幾つものシーンを封じ込めて、完成された。
それが良かったのか悪かったのかはわからないけれど、そうするしかなかったのだ、何せ三角さん本人から「これ以上撮影に応じられない」と言われてしまったのだから…。
このEdge2という番組は、多くの場合はじめに打ち合わせをして撮影事項を決めて、スケジュールをたてて、(逆の場合もあるが)撮影が行われる。
今回、彼女と相談してはじめに決めたのは、
(1) 過去―彼女のデビュー作である「オーバー・キル」について
(2)現在―夫との日常生活
(3)未来―将来のために足の手術をすること
の3つのパートで作ろう、ということだった。私自身は密かに、(2)に一番ボリュームを置き、最近の詩を紹介しつつ旦那様との愛情物語のパートにしたいと思っていた。
しかし、このうち撮れたのはほとんど(1)だけという段階で三角さんの状態は心身ともに悪くなり、最終的には旦那様の反対もあり撮影中止にするしかない、という結論を彼女から言い渡された。
宣告を受けた時、私は「撮れなかった(2)」についてばかり考えていた。三角さんの詩は、彼女の現在の日常から切り離せないものだからだ。特に新しい詩は、ほとんどがそうだった。むしろ、三角さんの場合はその詩自体が映像など必要としないドキュメンタリーのようなもので、そこにリアルな映像が被さったとき生まれる差異が面白いと思っていた。だから映像がないとなると(黒バックに詩をテロップするという案もあったが)番組は成立しないように思われた。
浅はかなことにこのときまで私が信じていたのは、このドキュメンタリーに出演して詩を朗読したり日常を見せたりすることが、三角さんの「表現」の一部であり、その表現欲求と共犯関係になって番組が作られるだろう、ということだった。しかし三角さんの不在と向き合い、この欠落した素材からどう番組を作ろうかとあがいたとき、そこで浮かび上がってくるのはなお強烈な三角さんの意思であり、存在だった。つまり不在による存在。どうだろう、このいないことによる饒舌さは!
こちらの意図する表し方といかなる相剋があろうとも、彼女はしっかりと番組の中で存在し得るだろう。あとはこちらがそれをどう受け止めるか。撮りはじめた時から直面していた、何がなくても詩だけが彼女を一番表しているというジレンマ。でも実は、それは決して彼女自身ではない。映像は両者を繋ぐものになり得るのだろうか?もはや「撮れない」ことに右往左往している場合ではなかった。
刊行間近の詩集に収録された詩にあてる映像を撮るため、頼み込んで押しかけた最後の手術の撮影の日。目の前に繰り広がれるのは、詩の世界を裏切りつつ、でも同時にそれを繋いだ光景だった。そのダイナミズムを現前にして、我々にはただ立ち尽くすしかない。(この時ほど撮影の辻さんが緊張していたのを見たことがない!)薬で意識がまだらになった彼女を見つめつつ、やがて私には三角さんの必死の生との格闘が、不謹慎ながらやがて粛々と演じられる「三角みづ紀」という壮大な物語に見えてきてしまった。これがフィクションなのかノンフィクションなのか、もはやどちらでもいい気がしていた。
彼女にとって、詩とは何か、彼女の詩にとって、彼女の現実とは何か…そんなことは、詩を読めばいいことなのだ。では映像には何ができるのか?
答えが出せないまま番組はできてしまった。後は見る人に委ねたいと思う。
Director 平田潤子
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